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木村屋のあゆみ

日本橋蛎殻町、中島座での正月興業の錦絵※日本橋蛎殻町、中島座での正月興業の錦絵

献上

明治8年4月4日。東京向島の水戸藩下屋敷を行幸された明治天皇に初めて酒種桜あんぱんを献上した日。
木村屋初代当主 安兵衛、二代目 英三郎 それにのちに三代目を継ぐ弟の儀四郎らは2週間程前から酒種の仕込みに余念がなかった。
4月4日、あんぱんのへそに奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けが埋め込まれ、季節感をたっぷり盛って焼き上げられたあんぱんは水戸藩下屋敷に届けられた。
あんぱんは明治天皇のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあった。
そして「引き続き納めるように」と両陛下のお言葉を頂いた。
献上の世話役、鉄舟こと山岡鉄太郎侍従の表情もゆるんだという。
安兵衛、英三郎、儀四郎親子に早速、上首尾であったことが伝えられ、その夜、安堵と喜びに包まれた銀座煉瓦街の木村屋は夜遅くまで華やぎ、ガス灯のあかりが揺れながらのんびり店前を照らしていた。
このことから明治天皇に献上された4月4日は「あんぱんの日」として記念日に制定されている。

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運命の出会い

安兵衛と鉄舟は明治維新の前、剣術を通じて知り合ったらしい。茨城県から江戸へ出て来たばかりの安兵衛と徳川慶喜将軍のお供でしばしば水戸藩に出かけていた鉄舟との出会いだった。
明治7年に新しく出来た銀座煉瓦街であんぱん作りに熱中していた木村親子に試食をさせられると「これ、うまいじゃないか」とあんぱんの味に折り紙がついた。
西洋から入ってきたパンとは違う、酒種を使い、その生地であんを包み焼き上げるという技術が鉄舟の心をとらえた。
「陛下に召し上がっていただこう」木村親子の努力を暖かい目で見守り、明治8年4月4日、隅田川沿いの水戸藩下屋敷であんぱんが明治天皇に献上された。
鉄舟は木村親子の成長が嬉しく、この年「木村家」の看板を書いて贈っている。現在の銀座本店入口に掲げられている※看板である。(※残念ながら、本物は関東大震災で焼失しております)

山岡鉄舟 揮毫による看板山岡鉄舟 揮毫による看板

初代 木村安兵衛初代 木村安兵衛

山岡鉄舟山岡鉄舟

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初代 安兵衛の二度の革命

明治維新は革命だったと作家の司馬遼太郎がいっている。
木村安兵衛は、この革命の中で自分自身の「革命」を二度やってのけた。
初回は茨城県牛久市の家を棄て、木村家本家の重義を頼って江戸に出たとき。
二度目は重義が所長を勤めていた東京府職業授産所の事務職を辞めて、パン屋を開業した時だ。
安兵衛50歳の大きな賭けだった。
パン屋開店の前年(1868年)江戸城が新政府軍によって無血開城した年でもある。
そして1869年、芝日陰町に日本で初めてのパン屋「文英堂」を開店させた。
この二度の革命があったからこそ木村屋の『酒種あんぱん』は誕生したと言っていい。
木村親子にとってはその後火災やパン職人との別れや出会いがあって明治7年、新生した銀座煉瓦街に本格的に進出を決意できたのも木村親子が試行錯誤の末、ようやく自信を持ってパンを作れるようになったからであろう。

明治初期の銀座木村家明治初期の銀座木村家

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文明開化とあんぱん

明治維新後、西洋文化が急速に流入し、パンも少しづつ普及し始めていたが、明治8年に明治天皇が召されたことで一躍大衆の間でパンが親しまれるようになった。
西洋の食べ物であったパンが日本独自の菓子パンとして庶民に定着し、文明開化を代表する食べ物になった。
文明開化という言葉がはやりだした明治の初期の流行語に「文明開化の7つ道具」というものがありましたが、その内訳は「新聞社」「郵便」「瓦斯灯」「蒸気船」「写真絵」「展覧会」「軽気球」「岡蒸気」そして「あんぱん」が上げられた。
そして明治18年、鹿鳴館時代を反映して銀座に「広目屋」という楽隊を率いる後の「チンドン屋」がお目見えしますが、木村屋が宣伝のためにいち早く採用し、巷間の人気を呼んで銀座木村屋の名は一躍して津々浦々まで響き渡った。
さらに明治20年、歌舞伎の中嶋座正月興行にとりあげられ、当時人気絶頂の初代市川猿之助、中村時蔵、中村寿三郎らの名演技に東都の人気を集め大盛況、おまけにその主演場面のフィナーレを描いた目のさめるような錦絵が売り出され、評判をとった。

 

パン、パン、パン
「木村屋パンを ごろうじろ
西洋仕込みの 本場もの
焼きたて 出来たて
ほくほくの
木村屋パンを 召し上がれ
文明開化の味がして
寿命が延びる 初物 初物」

二代目 木村英三郎二代目 木村英三郎

明治維新と東京府が銀座煉瓦街建設を計画しイギリス人技師トーマス・ウォートレスに依頼して建設を始め、明治7年銀座煉瓦街が完成した。木村屋はこの機に銀座4丁目に移転。そしてここから試行錯誤の末、酒種あんぱんを発明した。明治維新と東京府が銀座煉瓦街建設を計画しイギリス人技師トーマス・ウォートレスに依頼して建設を始め、明治7年銀座煉瓦街が完成した。木村屋はこの機に銀座4丁目に移転。そしてここから試行錯誤の末、酒種あんぱんを発明した。

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後継者帰る

木村屋二代目英三郎は鹿鳴館時代が事実上幕を閉じた明治20年5月9日、死去した。
36歳という若さだった。次いで明治21年、木村屋の恩人、山岡鉄舟子爵が逝去。さらに翌22年7月26日、73歳で初代 安兵衛が亡くなった。
残されたのは安兵衛の妻ぶんと英三郎の弟儀四郎の妻ゆうだった。後に三代目当主となる儀四郎は家を出ていて長い間不在だった。木村屋の発展はここでストップしたかに思われた。しかし、儀四郎は日清戦争の終わった明治28年の春、十年ぶりに銀座の本店に姿を現した。
母 ぶんに十年近い無音を詫び、当時のお金で一万円を差し出し許しを乞うたようです。儀四郎は銀座から姿を消したあと、決して遊んでいたわけではない。静岡や新潟、金沢を回って直営店を作り、あんぱんを製造していたし、中国や台湾を回って市場調査をして木村屋の出店をしていた。
明治30年頃「明治文化史・生活編」では明治30年頃あんぱんは全国的に広がったとしているが、儀四郎がまいた種がまさに実り始めた時期でもあった。
安兵衛、英三郎を相次いで失ったあと初めて訪れた木村屋にとって最も暗い日々を嫁のゆうと二人で店をきり回して来たが、全てを儀四郎に譲ったあと、明治30年11月27日、安兵衛の妻ぶんはこの世を去った。女性の地位が決して高くなかった当時、男の職人を使いこなして銀座の店を守りきった手腕が無かったら今の木村屋は存在していなかったかも知れない。

初代 木村安兵衛夫人 ぶん初代 木村安兵衛夫人 ぶん

三代目 木村儀四郎三代目 木村儀四郎

三代目 儀四郎夫人 ゆう三代目 儀四郎夫人 ゆう

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ジャムパン完成

日露両国の関係が緊迫して衝突が必至な状況の中、日本陸軍はパン屋、菓子屋を集めて軍指定の大規模なビスケット工場の建設を計画した。
その理由は日清戦争後の義和団事件で日本兵は飯を食わなければならないが火を使って飯を炊くからその火を目がけて敵弾が降りそそぎ、多くの犠牲者を出した。
しかし欧米の兵士たちはビスケットと缶詰めだから火は使わない。日本軍は各国から近代戦争の基礎を知らないと嘲笑されたのが原因である。
日本軍の食糧政策の大転換により、真剣に戦時食糧の研究を始め、その実験にあたったのが儀四郎らが作った東洋製菓であった。この東洋製菓は日本の近代的ビスケット工業の始祖となった。そして研究の末、乾パンが完成した。むろんこの乾パンが日露戦争の食糧となったのは言うまでもない。
明治33年、儀四郎はこの東洋製菓で実験を重ねていた時、ビスケットの生地にジャムをはさんで焼く作業を見ているうちに、これをあんの代わりに酒種生地にしてみたらと思いつき、銀座の店で売り出したところ大変な評判となった。ジャムパンの完成である。
日本で初めてジャムパンを完成した儀四郎であったが、ジャムパンがまさかビスケットをヒントに生まれたとは、転んでも必ず何かをつかんで起き上がるという儀四郎の性格がここでも発揮された。

 

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